6、室町・戦国時代の金・銀・銅の産出と永楽銭の流入                  

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6、室町・戦国時代の金、銀、銅の産出 と永楽銭)の流入

室町時代を、貿易で区分すると、およそ、次の様になる。
前期(1333年~)・・建武の新政、南北朝の争乱                ・・・・・・・ 日元貿易    
中期(1368年~)・・足利義満、義教、義政と応仁の乱(1468年~1477年) ・・・・・・・日明貿易
後記(16世紀)・・戦国時代(信長以前)                     ・・・・・日明・南蛮貿易

日中間の貿易は、元寇があっても、両国とも政権の交代があっても、また、戦乱や倭寇があっても、継続していた。日元貿易は、鎌倉末期は、建長寺船・天龍寺船と言われたが、輸出品は金・銀・銅・硫黄で、輸入品は銅銭(元銭と思われる)と陶磁器である。
それが、日明貿易になると、勘合貿易となり、輸出品は、銅、硫黄、刀剣、輸入品は、明銭(永楽通宝)と生糸となる。
戦国時代の後期に は、南蛮貿易が加わり、複雑になって、輸出品は、銅、硫黄、刀剣、日本人奴隷、輸入品は、中国産硝石、生糸となる。

<金・銀>
日宋・日元貿易の日本からの輸出品は、金であったが、日明貿易からは、金・銀が消えている。推測されることは、砂金で採集できる金が、なくなっていったことと思われる。次に、日本に、ゴールドラッシュが起きるのは、戦国末期からである。
1533年、石見銀山(島根県)が発見され、灰吹法が導入されたと言う。灰吹法は、金・銀の鉱石に、鉛に溶け込ませ、そこから金や銀を抽出する方法で、中国の技術が、朝鮮経由で、入ってきた。この灰吹法によって、日本は、砂金ではなく、金銀鉱石から、金銀を取りだすことが、出来るようになったと言える。
この灰吹き法は、1542年、兵庫県、生野銀山にも導入、そして、全国各地(甲府の黒川金山、佐渡金山)に普及して行った。これにより、日本の金・銀の産出が飛躍的に増加し、秀吉の慶長大判を生み出し、また、江戸時代初期(17世紀前半)には、日本は再び、世界有数の産金国となったと思われる。

<銅>
一方、日明貿易の頃から、輸出品の主力は、銅、硫黄が主力となる。
銅鉱石には、自然銅・酸化銅と硫化銅があるらしい。自然銅・酸化銅は、奈良・平安時代に、取り尽くしてしまったらしい。それに比べて、硫化銅は、日本の全国各地に算出していたようであるが、鎌倉・室町時代の技術では、せいぜい、粗銅と硫黄に分離できる程度であり、これを、輸出していたようである。
しかし、この日本の銅は、国内よりも非常に高値で明に輸出されていた。その理由としては、中国の歴史上慢性的とも言えた銅の不足の他に、日本の銅には銀が少なからず含有しており、当時の日本にこれを抽出する技術は無かったが、明はそれを持っていたためである。結果、「銅にしては高いが銀にしては安い」価値で交易されていた、とのことである。
それが変化するのは、1591年、蘇我理衛門が、大阪で、南蛮吹きを始めてからである。粗銅から灰吹法で金銀を取り出す南蛮吹きとは、先ず銅を鉛とともに溶かしてから徐々に冷却し、銅は固化するが鉛はまだ融解している温度に保つ。すると銅は次第に結晶化して純度の高い固体となって上層に浮かび、金銀を溶かし込んだ鉛が下層に沈む。この融解した状態の鉛を取り出して、骨灰の皿の上で空気を吹き付けることによって金銀を回収することが可能になった。(ウィキペディアより)
この結果、安価な粗銅の形での海外流出が止み、純度の高い銅として輸出できただけでなく、江戸初期に、日本製の銅銭を鋳造出来るようになった。
(注)、蘇我理衛門・・・住友財閥の祖、住友政友が還俗して、京都に書籍商を始めたが、姉と蘇我理衛門の子友以を養子に迎えた。2代友以が、大阪で銅精錬と輸出を業とする泉屋を創設した。後に、別子銅山を開発し、住友財閥の元となった。住友政友が家祖、蘇我理衛門が業祖と言われており、住友の井桁のマークは、泉屋の泉に由来する。

<宋銭・明銭>
日本は、室町時代から、江戸時代前期にかけては、世界有数の産銅国であった。それでいながら、日本で使われた貨幣は、宋銭であり、明銭であった。1636年、日本製の「寛永通宝」が登場し、外来銭は一掃された。平安時代末に宋銭が輸入されてから、日本では、およそ500年近くもの間、外国製の通貨が利用されていたことになる。

日本の貨幣は、宋銭でスタートし、室町時代は、明銭が登場したが、中国の正規貨幣だけが流通していた訳ではない。それを模造した多くの私鋳銭も出てきた。私鋳銭は、明だけでなく日本国内でも鋳造されたようであるが、品質も劣っていたのであろうか、鐚銭と呼ばれた。鐚銭であっても、素材が銅であるから、通用しなかった訳ではない。交換比率が、悪かったり、10枚の内、何枚までは許容すると言う話であったようである。
室町幕府や多数の戦国大名が、撰銭令を度々発令した。悪銭と良銭の混入比率を決めたり、一定の悪銭の流通を禁止したり、等であるが、あまり効果は乏しかったようである。
1569年、織田信長も、撰銭令を出し、悪銭と良銭との交換レートを定め、厳罰も課している。信長の撰銭令は細かい。宋銭・永楽銭などの良貨を1文と定める(基準銭)。そして、宣徳(せんとく)銭などは基準銭の1/2の価値、破銭などは1/5、南京銭(私鋳銭の一種)などは1/10…と、基準銭以外の10種の貨幣(増銭)を3グループに分け、それぞれにレートを定めた。

永楽通宝・・・明の永楽帝の時代の永楽9年(1411年)から作られた銅銭であるから、足利義満の勘合貿易の時代には、まだ登場しておらず、勘合貿易を復活(1432年)した足利義教以降の勘合貿易や倭寇によってもたらされた。
古(宋)銭には、数百年の流通によって磨耗、破損したものが多く、新たに流入した「永楽通宝」は良質だったため、最も評価が高かった様である。
もっとも、貨幣経済の浸透していた近畿・西日本では、従来からの古(宋)銭が好まれたようであり(交換貨幣として、銀も併用されていたこともあると推測される)、東日本(尾張以東)での評価が高く、知行地までが、永楽銭を基準とした貫高制となった。
織田信長は、貨幣経済を重視していたと思われ、旗印に永楽通宝を使用している。また、真田幸村の六文銭も、永楽通宝である。

<日明、南蛮貿易の交易品>
・日明貿易の輸入品に生糸、輸出品に刀剣が出て来る。輸入生糸は、京都西陣を始めとした近畿地方で、絹織物が生産され、また、近畿地方の刀鍛冶で大量に生産された刀剣が、明に輸出されていたことが解る。
・南蛮貿易では、生糸(明・安南)は輸入されたが、戦国時代ならではの、奴隷の輸出と硝石の輸入がある。天文12年(1543年)、ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝えた。鉄砲そのものは、日本人の技術で、あっという間に量産できたが、肝心の弾薬については、その原料である硝石が無かった。戦国大名は、争って硝石を輸入したが、輸出するものが無い。西国のキリシタン大名は、戦場で手に入れた日本人を奴隷のごとく輸出した。これが、豊臣秀吉の、キリシタン禁令に繋がって行った理由の一つである。
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